収入とやりたいことの線引き

我々は内に秘めた情熱を持っている。だからこそ、一見これまで特別な情熱を抱けなかったように見える時間を過ごして今に生きている。

この理論で他人から評価されるのが就活なのだと近頃痛感する。実際に自分で考えて行動し、それと真摯に向き合うことで得られた経験を問うてくる。

これはもっともな言い分である。「欲しいものがあるからアルバイトでお小遣いを貯める」のと全く同じ動機だ。

一方で残酷な面を持ち合わせる。上記の例が真であるなら、その対偶もまた真であるからだ。つまり、「お金が足りないから何かを諦める」というのは、その程度の情熱だったのだと周囲から判断されても文句は言えない。

だからこそ、自力でお金を生みだすことを認められた環境になったのなら、何を差し置いてもこの環境に適応するように行動せねばならない。世間を見渡せばいくらでもある稼ぎ方の中からアルバイトを選んで継続している学生で言えば、他人が要求する給料で自分の時間を切り売りすることに同意していることに他ならない。

温故知新

人生において重視してきた価値観がわからないまま社会に出てしまったのは反省点である。就職に際して経験を振り返って自分の起源を見極めるのには、時間と能力が不足していた。卒業の 2 年前から行動しても時間が足りず、またその瞬間にこなすべき課題などと並行して結果を出すには能力が不足していた。

振り返れば、幼い頃から家と学校以外で所属していた団体が周囲の子に比べて多かった気はする。私の住んでいた地域はどの駅にもバスや自転車で20分程度かかるという絶妙に不便な町だったからかもしれない。東京に隣接しているからといって必ずしも便利な生活を享受できるわけではなく、だからこそ少々文化に遅れが生じていた節もあった。

閑話休題。

ともかく、義務教育期間中に運動に勉強と様々な団体で時を過ごした。幼稚園から始めた水泳でさえ、高校で水泳部に所属するまでに 3 つのクラブを転々とした。今でも繋がりのある関係を学校の外で築けたのは大きな財産であろう。また、学校内での人間関係から発展した習い事もあった。学習塾やマーチングバンドがそうだ。

水泳を始めたきっかけは、水中で前回りをすることやあらゆる泳法の会得への憧れだと記憶している。また、普段生活している陸上以外にも抵抗なく入り込める別の世界に興味があったのも大きい。つまり、水泳はそれ自体に興味を持っていたからこそ始めるきっかけとなったのだ。

ここで疑問となるのが、特に勉強が好きでも金管楽器に憧れていたわけでもないのに挑戦した塾やマーチングへの加入である。これらには、普段共に過ごす時間が長い人間のうち、自分に足りていない能力を持っていてどこか尊敬できる人が先に所属していたという共通点が存在する。彼らが中学で所属していた野球部は人数が足りずに練習試合を組むこともできなかったため、その助けとしてさほど興味のなかった野球をちょっとかじったほどだ。この流れに乗じて他にも数名野球部に入部したために、私がおらずとも練習試合ができるようになった。それからは本命だった水泳に集中するという名目で部活を休むことが多くなったことにも私の行動原理が表れているが、こちらはまた別の話にて。

たまたま彼らとは小中学校を通じて最も仲の良い関係を築けたが、これは私が自覚していなかった敬意の結果なのだろうか。

おそらく半分は正しい。他にも仲の良い友達は何人もいて、登下校を共にしたり学校で一緒にオタ芸の練習をしたりした。それらも間違いなく楽しい記憶の一つであるが、その時に一緒に笑った彼らとの間に、今では少しの断絶を感じる。

一方で残りの半分は、相手も私のことを認めてくれたからではないだろうか。互いが認めあったからこそ本音で語り、良好な関係を今でも維持できているのだとも思う。実際、学校の外の人間関係である水泳クラブのうち今でも連絡を取れているのは、少なくとも私が尊敬できる特技や経験などを持っている人たちである。また、相手も適度な距離感を持って私と接してくれるからこそ、思い出したときに気軽に連絡を取り合えるのだろう。

このように良好な関係を築けた人が所属している団体は、その人がその団体に見出した価値があることを保証してくれている。

相手を尊敬し、かつ相手と釣り合っていると互いが感じている関係こそが、人生に潤いを与えるのだ。なぜなら、このような関係の下では、知り合いが所属している団体に興味を抱くし、相手側も私との時間が占める割合が増えても拒否反応を示さないからだ。そうして新たに所属した団体の中で他にも尊敬できる人とと出会い、また新たな団体に所属するきっかけを与えられる。この連鎖が豊かな経験の源泉となると、無意識に私は学んでいたのだ。

話の作り方

本日のお悩み

私が毎回感心する話の構成がある。本当に言いたいことを後ろに置き、それに類似する構造を持つ身近で想像しやすい別の話題を提示する構成だ。

これを実際に行うには、話したい内容の伝えたいことや苦しんでいることを予め自分なりに構造化する必要がある。加えて、前座のお笑いの引き出しを潤沢にすることが不可欠だ。

 

コンピュータが得意な「計算」を考えよう。私は 27.8 × 0.87 を暗算で 5 秒以内に求めることはできない。これを行う一般的な手順として、

  1. 0.8×0.07=0.0056 を記憶
  2. 7×0.07=0.49 を記憶
  3. 20×0.07=1.4 を記憶
  4. 0.8×0.8= 0.64 を記憶
  5. 7×0.8=5.6 を記憶
  6. 20×0.8=16 を記憶
  7. 上記全てを足す

といったものがある。上記は一般的な筆算の処理と等しく、小学校で誰もが習う計算方法である。あなたも実感するように、このように明文化すれば全く難しい点はない。しかし、7つの数値を記憶し、その上で足し算を行うことは容易でない。繰り上がりも考慮しなければならないので尚更だ。

 

閑話休題

つまり、人間はいくつかの物事を記憶し、それらを並列に処理することは苦手なのである。

新たなものを生み出すために私たちが一瞬だけ記憶し、活用できる情報量に限りがある。すなわち、我々はある程度の情報を活用できるように、常にストックを持たねばならない。

これが自分の中から瞬時に湧き出る人であれば大した問題にはならない。しかし、私の場合は型が確立していないために、より多くの人が面白いと感じられるように外部で整えられた型を活用することが、限られた時間の中で最大の効用を実現するために不可欠な作業だ。あらゆるテストに時間制限があるのと同様に、人生もある程度の時間しか猶予がない。自分に残された時間に限りがあるのに、こちらの都合で待ってくれる赤の他人がいるだろうか。少なくとも私は、ぱっと見で是非助けになりたいと思える人以外には貢献できる自信がない。

 

今回の件で私が学んだこと

人生で重要なことの 9 割は公立中学卒業までに触れられる機会があるが、それらを真に自分のものとできずとも時間は過ぎてしまうということ。

オタクと社会

私はアニメが大好きなオタクだった。

中学校で仲の良かった友人が教えてくれた世界だった。
当時の私はインターネットというものに日常的に触れることができなかった。
今では知らない人がいないであろうyoutubeも、パソコンで動画を見れる数少ないサイトという印象を抱いた程度で、その名前を正確に覚えることはできなかった。
中学2年の時、友人がメモリーカードにダウンロードしてくれたアニメを、持っていたPSPで見た時の衝撃は忘れない。
第一話の尺が通常の倍で、二人の中年男性が円形に歩きながら黙々と戦いのルールを語っている作品だった。
その作品は今でも好きだ。
同時期に教えてくれたオタ芸にも打ち込んだ。
進学した高校のクラスで突如披露し、その熱量はクラスメイトの一部を感化させ、私が参加しない体育祭のパフォーマンスとして採用されたほどである。

 

2年生に進級した直後に初めて登録したtwitterに広がっていたオタクの世界が、私の持っていた熱量を暴走させた。
本来の純粋な好奇心は、私がネットでいち早く仕入れた情報にテレビで数週間後に初めて触れたのち、ネットで語りつくされた意見を述べる周囲の人々から優越感を得るために消耗されていた。
周囲との違いから、いつしかネットを駆使して時代の最先端を走るオタクは人々より優れていると思い込んでいた。

 

世界には二種類のオタクがいる。
消費するオタクと創造するオタクだ。

前者は、それの存在を知っていて話題にできる自分に酔いしれて満足する。
後者は、自分が得た知識から節約や便利さを追求してよりよい生活に満足する。

 

オタクは世界を動かす可能性を秘めているが、あくまで秘めているに過ぎない。
広く言われているが、一つのことを極めることができる熱量の持ち主という点で、オタクがその他大勢より少々将来有望であるだけ。
それを開花させた人の一部は「インフルエンサー」と広く称され、テレビ出演という形で世間に広く認められることもある。言うまでもなく羨望の対象である。

 

社会に広く受け入れられるか否かは、その趣味によって恩恵を授かった人数や経済の規模による。

一般に貶められる趣味であるアニメ、ゲーム、アイドルはその創作者や本人のみに貨幣という有形で定量的なもので恩恵が集中する。
また、その趣味を極めることによって他人に貢献できることが増える訳ではない。
その世界を創造した誰かによってその限界が設定されている世界ではしゃいでいると、その世界の外にいる人間から見ると、実体のないものに泥酔しているだけに見える。
shibuya meltdown を見て君が嘲笑ったり煙たがったりしているのと同じように、周囲の目には映る。
入場料を払った人だけが存在できる世界でいくらはしゃごうとも、その外にいる人間にはその楽しさが理解できないのだ。
これは誰もが経験したであろう、より狭い範囲での具体的な例を示すことができる。
ゼルダの伝説はとても面白いと友人が勧めてきたが、ポケモンやドラクエしかプレイしたことのない私はその面白さが理解できない。
K-POP が好きなバイト先の女子大生に BTS を猛プッシュされても、洋楽や R&B が好きな私はその良さを理解できない。

 

そうでない趣味、例えば動画制作、プログラミング、料理、二次創作 etc は、直接の関係者のみに限らず、知識や実益という無形で定性的なもので多くの人々に恩恵を授ける。
大学教員など、学問を趣味とした結果が色濃く反映されたような職業も一目置かれる。
自然や社会や芸術といった、入場料を払わずとも大人数が存在できる世界ではしゃぐことは、その過程で生まれた副産物などが他人を益することもある。

 

恩恵を授かった個人や団体が、恩恵を授けた個人に対してお返しをすることがある。
これは当事者が自発的に感じた恩義を返したくなったからである。

 

国という大きな組織についても、しばしば政治とカネといったフレーズでこのようなことが問題視される。
献金という名目で重要な取り決めがなされる前に当事者に接近することで、本人の意思を曲げさせるというものだ。
より規模を小さくして考えると、jkビジネスや風俗といったものが類似する。これらも一般に対するウケは悪い。
これも同様に、カネという権力を通して当事者らの意識を買い取り、自分の思うままに相手を動かそうとしているからだ。

これらの違いは、当事者の意識が自発的に発生するか否かという点で分けられる。

 

インフルエンサーが蝶であれば、オタクはその幼虫である芋虫
全ての芋虫がきれいな蝶となって空を舞うことはかなわない。

現代人のほとんどが明日を生きるためのお金を稼ぐために毎日嫌々労働を強いられている。
つまり君は君の意識をカネという権力で会社に縛られていると見ることができる。
そこに突如現れるインフルエンサーは皆輝いているように見える。やりたいことで生きていくと語りかける。
そんな生き方があるのだと感銘を受け、自分もそうなりたいと思う人が増えたり、そう思われずとも少なからず憧れる。

大人になるということ

僕は幼いころからとても単純だった。
担任だった6人の賢い小学校の担任の先生が通信欄に書くことは全員違ってもいいはずなのに、通信簿には「調子に乗りやすい」と書かれなかったことの方が少ないくらいだ。

そんな僕だからか、水中が楽しいだとか面白い仲間に囲まれただとかの理由だけで、紆余曲折を経ながらも幼稚園年中から始めた水泳を中学3年まで続けることができた。
クラブチームに既に存在していた体育会系の意味わからん上に肉体的にしんどいノリが鬱陶しいと思うことも少なくなかったが、それを乗り越えた先のメシの美味さがクセになっていた。

インターハイ。その響きに憧れていた中学生は、0.02 秒の差で関東大会を逃した悔しさをばねに高校生スイマーとして雪辱を果たすことを誓った。

 

関東大会後の全国大会に向けた最終準備をするという名目で夏休みが始まってすぐに開かれる合宿に、来年以降の活躍を見込まれて1年生の頃から参加していた。
今年話題になった、競泳日本代表主将と同じプールで練習していた。それほどにかなり恵まれた環境にいられたのだと今では痛感するが、県大会で入賞経験すらなかった自分の場違い感にただ恐怖していた。
実際、参加メンバーからもわかる通りの練習の厳しさにも毎回疲れ切っていた。
この地獄がいつ終わるかわからなかった1年目は、一回一回の練習にただついていくだけで精一杯だった。
一日一日が生きるか死ぬかの瀬戸際だと感じていた。
この合宿に参加する高校3年生はインターハイに出場を決めた選手のみだった。
体格と実績、余裕の格の違いから、彼らに畏敬の念を抱いた。

 

同じ種目で距離も被りがちのいつも何となく成績が僕より良い同期が関東大会にコマを進めた高2の夏の出来事。
当時の顧問に今でもこれを話題に出され、現在の様子と比較して大人になったなと言われる。

昨年とは違い、ある程度緩急をつけて練習に取り組むことができるようになった2年目。
自分なりに限界まで挑戦したつもりであった練習。
日頃から顧問がよく口にしていたので、メニューの核となるメインは始めから全力で取り組まねば意味がないという考えがあることは知っていた。
メインというのはその練習における山場のことで、大抵その練習中で一番しんどい内容で、幕の内弁当のように日によってその内容は違うものである。
目を見張るほどの瞬発力や長時間にわたる競技が得意でなかった僕は中距離を得意していた。
だからメインで初めから好記録を狙いに行くという顧問のアドバイスは、顧問自身も得意としていた短距離でかつお気に入りの選手に向けているのであって、自分には向けられていないと信じていた。

ある日の午後練のメインを、顧問が目指していた出来からは程遠い結果で練習を終えた。
全体で練習を終え、その他多くの生徒がプールから上がろうとしている時に顧問から声をかけられた。
30分以上かかるメインのやり直しを言い渡された。

炎天下では水温が35℃を超える日もあった。
プールという単語から想像される爽快さとは程遠く、ぬるま湯と言っても違和感はなかった。
午後練後の夕食で僕たちは晩御飯で一人一升程の白米を平らげることを毎日のノルマとして課されていた。
必死に白米を搔き込み、耐え切れずに吐く生徒が続出する環境でも、食事を終えた顧問は優雅に読書をしていた。
日々の厳しい練習に身体中が悲鳴を上げ、明日の2部練を乗り越えられる気がしなかった。

様々な要因に対する不満や不安が爆発し、これまでの顧問の態度に腹を立て続けていた僕は、言い渡されたやり直しに対して行動で示した。
途中から顧問の読み上げるタイムを聞くことなく、延々と泳ぎ続けた。
僕一人でも泳いでいればプールを閉められず、水中に耳がある僕にその声を届かせるには相応の力で僕の体に接触しなければならない。
ちょっと前に部活の体罰問題が話題になった頃だったので、どちらにせよ困ることになるのは顧問だと信じていた。

 

でもそれは単純な自分の未熟で浅はかな考えや行動だったと今の僕なら自信をもって言える。

 

練習開始直後からメインならまだしも、それまでに他の基礎的なメニューをいくらかこなした上でメインに取り組むからである。
メニューは練習開始前に各コースのコーチから解説があった。当時は読めばわかることをただ音読しているだけだと思っていたし、実際にそんな日もあっただろう。
しかし基本的には、どこにあるメインに向けて組まれたメニューで、それまでにどういうことを意識しながら取り組んでほしいかを話していた。
つまり、メインの始めから万全の状態で取り組んでほしいがために、それまでに各自が十分に準備できるように基本が組まれていたのである。
それなのにろくに説明を聞かず、自分のコンディションを整えようともせず、自分は中距離型だから序盤は調子が上がらないのは仕方ないと言い訳をしていたのだ。

 

 

ここまでの話はもっと広く学生生活にも通じるものがある。

親や学校の先生が過剰に学生生活に干渉してくると感じ、怒りを抱くことも多いだろう。
でもあなたの行動を制限している正体はあくまで肉親とか先生とかという社会の役割なのであって、その役割を担っている人間ではないということを忘れないでほしい。
あなたと同じ人間なのだから、彼らが感じていることは自分の感じていることと大差ない。
実際、年長者には自分がその時々にどう「感じて」いるかはお見通しなことが多い。
差があるとすれば、それぞれが感じたことに対して何を考えるか、どう行動するかである。

 

社会人についても同様に考えることができるが、書いていたら別の話題に発展し本題から逸れたので別の記事で改めて述べる。

 

 

大人になるということ。
それはただ成人式を迎えるという受け身なことではない。
社会に役割を与えられた人間からの指示を、指示そのものに従わされると考えるのではなく、その人の立場を考慮した上で指示の意図を吟味するということである。

自分をいいように利用する相手の性格が悪いだけとか馬が合わないと早合点して関係を軽視するのは、実は自分にとって損なのだ。
相手の立場を考慮すると、相手が社会に何を求めてられているかがわかる。
役割と個人との乖離を追及することが相手とのコミュニケーションのうちで最も意義のあることである。
役割から得られるものは、自分から働きかけずとも流れてくる情報に過ぎない。
人の中の矛盾をどう浮き彫りにするかが、どこがネタとしていじることができるかに発展する。
上手く相手の矛盾をいじることは、相手にも自身の人間性を気づかれていると感じさせる。
自分が人間として妥当な価値を持っているということを、他人の言動から主体的に理解できたと錯覚することが、自分の承認欲求を満たす。
自分の肯定感を上げてくれる人と一緒にいる方が心地よいのは誰もが同じである。
これが相手との関係を築くことに等しい。

一個人として言いたいことは相手に求められて初めて表に出しうるが、役割として言わなければいけないことは他人に求められずとも言わなければならない。
一個人の意見と社会の役割とが相反するときにどちらを優先して話してくれるか、行動してくれるかはこれまでに築いてきた関係に大きく左右される。

 

よく体育会系の代表的な特徴として挙げられがちなコミュ力お化けがあるが、一流選手ほどその傾向があるのは想像に難くない。
実際、宝石を名に持つ話題の競泳選手は、他の生徒が恐縮していた先生からも笑いを引き出していた。
これは当時の彼の素直さや謙虚さ、あるいは彼自身の功績から来る自信を基盤とするコミュ力の賜物だろう。
彼らはすぐに相手を懐柔できるからこそ、自分のためになる部分を相手の能力の中から引き出すことができる。
その結果として自分の功績を積み上げ、更に自信をつけることでコミュ力をより高めることができる。
これが成功者の言う正のスパイラル、勝ち癖というものだ。

この連鎖に既に乗っている彼ら並みの力を僕たちが身に着けられればそれ以上望むことはないが、それに及ばずとも、物事に対する姿勢について彼らから学ぶことは多い。
相手の意図を理解できるという一見簡単に見える能力を身に着けるだけで、今後のその人との関わり方やこれまでの挑戦をこれからの解決に生かす方法を模索する材料となるのだ。

 

 

与えられた情報の表面のみから判断するのではなく、その原因と意味を想像し、その上で自分に得となりそうな部分を探る。
つまり主体性を持って行動するということが、大人になるということである。
主体性を持つだけだったり行動するだけだったりだと意味がなくなることに注意してほしい。

これらを意識して実践できれば、たとえ飲酒ができずとも、喫煙ができずとも、ただ時間を食ってきただけの大人よりも立派な大人となる。

 

具体的にあなたが明日からできるもっとも簡単なことを挙げる。

学生であれば、教科書に書かれたことや本屋に並んだ問題集に自ら挑戦することである。
これによって、あなたが社会から与えられた学生という役割を全うすることになる。
実際その結果を示す場として、今後の社会活動についてまわってくる学歴の良し悪しを決定する入試が誰にでも訪れる。

社会人であれば、気乗りしない誘いであってもその有用性を見抜き、集いに積極的に参加することである。
あなたが社会から与えられた役割は、あなたが生活を営めている以上既に半強制的に全うさせられている。
学生と異なる点は、入試のように全員が同じタイミング、同じ基準を用いて評価される機会がないという点である。
常日頃から自己を研鑽し続けることが、今後の社会活動の基盤となる。

 

 

 

迎えた高校生活最後の夏休み。
高校の同期が1人しか残らなかったプールで8日間を過ごした。