私はアニメが大好きなオタクだった。
中学校で仲の良かった友人が教えてくれた世界だった。
当時の私はインターネットというものに日常的に触れることができなかった。
今では知らない人がいないであろうyoutubeも、パソコンで動画を見れる数少ないサイトという印象を抱いた程度で、その名前を正確に覚えることはできなかった。
中学2年の時、友人がメモリーカードにダウンロードしてくれたアニメを、持っていたPSPで見た時の衝撃は忘れない。
第一話の尺が通常の倍で、二人の中年男性が円形に歩きながら黙々と戦いのルールを語っている作品だった。
その作品は今でも好きだ。
同時期に教えてくれたオタ芸にも打ち込んだ。
進学した高校のクラスで突如披露し、その熱量はクラスメイトの一部を感化させ、私が参加しない体育祭のパフォーマンスとして採用されたほどである。
2年生に進級した直後に初めて登録したtwitterに広がっていたオタクの世界が、私の持っていた熱量を暴走させた。
本来の純粋な好奇心は、私がネットでいち早く仕入れた情報にテレビで数週間後に初めて触れたのち、ネットで語りつくされた意見を述べる周囲の人々から優越感を得るために消耗されていた。
周囲との違いから、いつしかネットを駆使して時代の最先端を走るオタクは人々より優れていると思い込んでいた。
世界には二種類のオタクがいる。
消費するオタクと創造するオタクだ。
前者は、それの存在を知っていて話題にできる自分に酔いしれて満足する。
後者は、自分が得た知識から節約や便利さを追求してよりよい生活に満足する。
オタクは世界を動かす可能性を秘めているが、あくまで秘めているに過ぎない。
広く言われているが、一つのことを極めることができる熱量の持ち主という点で、オタクがその他大勢より少々将来有望であるだけ。
それを開花させた人の一部は「インフルエンサー」と広く称され、テレビ出演という形で世間に広く認められることもある。言うまでもなく羨望の対象である。
社会に広く受け入れられるか否かは、その趣味によって恩恵を授かった人数や経済の規模による。
一般に貶められる趣味であるアニメ、ゲーム、アイドルはその創作者や本人のみに貨幣という有形で定量的なもので恩恵が集中する。
また、その趣味を極めることによって他人に貢献できることが増える訳ではない。
その世界を創造した誰かによってその限界が設定されている世界ではしゃいでいると、その世界の外にいる人間から見ると、実体のないものに泥酔しているだけに見える。
shibuya meltdown を見て君が嘲笑ったり煙たがったりしているのと同じように、周囲の目には映る。
入場料を払った人だけが存在できる世界でいくらはしゃごうとも、その外にいる人間にはその楽しさが理解できないのだ。
これは誰もが経験したであろう、より狭い範囲での具体的な例を示すことができる。
ゼルダの伝説はとても面白いと友人が勧めてきたが、ポケモンやドラクエしかプレイしたことのない私はその面白さが理解できない。
K-POP が好きなバイト先の女子大生に BTS を猛プッシュされても、洋楽や R&B が好きな私はその良さを理解できない。
そうでない趣味、例えば動画制作、プログラミング、料理、二次創作 etc は、直接の関係者のみに限らず、知識や実益という無形で定性的なもので多くの人々に恩恵を授ける。
大学教員など、学問を趣味とした結果が色濃く反映されたような職業も一目置かれる。
自然や社会や芸術といった、入場料を払わずとも大人数が存在できる世界ではしゃぐことは、その過程で生まれた副産物などが他人を益することもある。
恩恵を授かった個人や団体が、恩恵を授けた個人に対してお返しをすることがある。
これは当事者が自発的に感じた恩義を返したくなったからである。
国という大きな組織についても、しばしば政治とカネといったフレーズでこのようなことが問題視される。
献金という名目で重要な取り決めがなされる前に当事者に接近することで、本人の意思を曲げさせるというものだ。
より規模を小さくして考えると、jkビジネスや風俗といったものが類似する。これらも一般に対するウケは悪い。
これも同様に、カネという権力を通して当事者らの意識を買い取り、自分の思うままに相手を動かそうとしているからだ。
これらの違いは、当事者の意識が自発的に発生するか否かという点で分けられる。
インフルエンサーが蝶であれば、オタクはその幼虫である芋虫
全ての芋虫がきれいな蝶となって空を舞うことはかなわない。
現代人のほとんどが明日を生きるためのお金を稼ぐために毎日嫌々労働を強いられている。
つまり君は君の意識をカネという権力で会社に縛られていると見ることができる。
そこに突如現れるインフルエンサーは皆輝いているように見える。やりたいことで生きていくと語りかける。
そんな生き方があるのだと感銘を受け、自分もそうなりたいと思う人が増えたり、そう思われずとも少なからず憧れる。