僕は幼いころからとても単純だった。
担任だった6人の賢い小学校の担任の先生が通信欄に書くことは全員違ってもいいはずなのに、通信簿には「調子に乗りやすい」と書かれなかったことの方が少ないくらいだ。
そんな僕だからか、水中が楽しいだとか面白い仲間に囲まれただとかの理由だけで、紆余曲折を経ながらも幼稚園年中から始めた水泳を中学3年まで続けることができた。
クラブチームに既に存在していた体育会系の意味わからん上に肉体的にしんどいノリが鬱陶しいと思うことも少なくなかったが、それを乗り越えた先のメシの美味さがクセになっていた。
インターハイ。その響きに憧れていた中学生は、0.02 秒の差で関東大会を逃した悔しさをばねに高校生スイマーとして雪辱を果たすことを誓った。
関東大会後の全国大会に向けた最終準備をするという名目で夏休みが始まってすぐに開かれる合宿に、来年以降の活躍を見込まれて1年生の頃から参加していた。
今年話題になった、競泳日本代表主将と同じプールで練習していた。それほどにかなり恵まれた環境にいられたのだと今では痛感するが、県大会で入賞経験すらなかった自分の場違い感にただ恐怖していた。
実際、参加メンバーからもわかる通りの練習の厳しさにも毎回疲れ切っていた。
この地獄がいつ終わるかわからなかった1年目は、一回一回の練習にただついていくだけで精一杯だった。
一日一日が生きるか死ぬかの瀬戸際だと感じていた。
この合宿に参加する高校3年生はインターハイに出場を決めた選手のみだった。
体格と実績、余裕の格の違いから、彼らに畏敬の念を抱いた。
同じ種目で距離も被りがちのいつも何となく成績が僕より良い同期が関東大会にコマを進めた高2の夏の出来事。
当時の顧問に今でもこれを話題に出され、現在の様子と比較して大人になったなと言われる。
昨年とは違い、ある程度緩急をつけて練習に取り組むことができるようになった2年目。
自分なりに限界まで挑戦したつもりであった練習。
日頃から顧問がよく口にしていたので、メニューの核となるメインは始めから全力で取り組まねば意味がないという考えがあることは知っていた。
メインというのはその練習における山場のことで、大抵その練習中で一番しんどい内容で、幕の内弁当のように日によってその内容は違うものである。
目を見張るほどの瞬発力や長時間にわたる競技が得意でなかった僕は中距離を得意していた。
だからメインで初めから好記録を狙いに行くという顧問のアドバイスは、顧問自身も得意としていた短距離でかつお気に入りの選手に向けているのであって、自分には向けられていないと信じていた。
ある日の午後練のメインを、顧問が目指していた出来からは程遠い結果で練習を終えた。
全体で練習を終え、その他多くの生徒がプールから上がろうとしている時に顧問から声をかけられた。
30分以上かかるメインのやり直しを言い渡された。
炎天下では水温が35℃を超える日もあった。
プールという単語から想像される爽快さとは程遠く、ぬるま湯と言っても違和感はなかった。
午後練後の夕食で僕たちは晩御飯で一人一升程の白米を平らげることを毎日のノルマとして課されていた。
必死に白米を搔き込み、耐え切れずに吐く生徒が続出する環境でも、食事を終えた顧問は優雅に読書をしていた。
日々の厳しい練習に身体中が悲鳴を上げ、明日の2部練を乗り越えられる気がしなかった。
様々な要因に対する不満や不安が爆発し、これまでの顧問の態度に腹を立て続けていた僕は、言い渡されたやり直しに対して行動で示した。
途中から顧問の読み上げるタイムを聞くことなく、延々と泳ぎ続けた。
僕一人でも泳いでいればプールを閉められず、水中に耳がある僕にその声を届かせるには相応の力で僕の体に接触しなければならない。
ちょっと前に部活の体罰問題が話題になった頃だったので、どちらにせよ困ることになるのは顧問だと信じていた。
でもそれは単純な自分の未熟で浅はかな考えや行動だったと今の僕なら自信をもって言える。
練習開始直後からメインならまだしも、それまでに他の基礎的なメニューをいくらかこなした上でメインに取り組むからである。
メニューは練習開始前に各コースのコーチから解説があった。当時は読めばわかることをただ音読しているだけだと思っていたし、実際にそんな日もあっただろう。
しかし基本的には、どこにあるメインに向けて組まれたメニューで、それまでにどういうことを意識しながら取り組んでほしいかを話していた。
つまり、メインの始めから万全の状態で取り組んでほしいがために、それまでに各自が十分に準備できるように基本が組まれていたのである。
それなのにろくに説明を聞かず、自分のコンディションを整えようともせず、自分は中距離型だから序盤は調子が上がらないのは仕方ないと言い訳をしていたのだ。
ここまでの話はもっと広く学生生活にも通じるものがある。
親や学校の先生が過剰に学生生活に干渉してくると感じ、怒りを抱くことも多いだろう。
でもあなたの行動を制限している正体はあくまで肉親とか先生とかという社会の役割なのであって、その役割を担っている人間ではないということを忘れないでほしい。
あなたと同じ人間なのだから、彼らが感じていることは自分の感じていることと大差ない。
実際、年長者には自分がその時々にどう「感じて」いるかはお見通しなことが多い。
差があるとすれば、それぞれが感じたことに対して何を考えるか、どう行動するかである。
社会人についても同様に考えることができるが、書いていたら別の話題に発展し本題から逸れたので別の記事で改めて述べる。
大人になるということ。
それはただ成人式を迎えるという受け身なことではない。
社会に役割を与えられた人間からの指示を、指示そのものに従わされると考えるのではなく、その人の立場を考慮した上で指示の意図を吟味するということである。
自分をいいように利用する相手の性格が悪いだけとか馬が合わないと早合点して関係を軽視するのは、実は自分にとって損なのだ。
相手の立場を考慮すると、相手が社会に何を求めてられているかがわかる。
役割と個人との乖離を追及することが相手とのコミュニケーションのうちで最も意義のあることである。
役割から得られるものは、自分から働きかけずとも流れてくる情報に過ぎない。
人の中の矛盾をどう浮き彫りにするかが、どこがネタとしていじることができるかに発展する。
上手く相手の矛盾をいじることは、相手にも自身の人間性を気づかれていると感じさせる。
自分が人間として妥当な価値を持っているということを、他人の言動から主体的に理解できたと錯覚することが、自分の承認欲求を満たす。
自分の肯定感を上げてくれる人と一緒にいる方が心地よいのは誰もが同じである。
これが相手との関係を築くことに等しい。
一個人として言いたいことは相手に求められて初めて表に出しうるが、役割として言わなければいけないことは他人に求められずとも言わなければならない。
一個人の意見と社会の役割とが相反するときにどちらを優先して話してくれるか、行動してくれるかはこれまでに築いてきた関係に大きく左右される。
よく体育会系の代表的な特徴として挙げられがちなコミュ力お化けがあるが、一流選手ほどその傾向があるのは想像に難くない。
実際、宝石を名に持つ話題の競泳選手は、他の生徒が恐縮していた先生からも笑いを引き出していた。
これは当時の彼の素直さや謙虚さ、あるいは彼自身の功績から来る自信を基盤とするコミュ力の賜物だろう。
彼らはすぐに相手を懐柔できるからこそ、自分のためになる部分を相手の能力の中から引き出すことができる。
その結果として自分の功績を積み上げ、更に自信をつけることでコミュ力をより高めることができる。
これが成功者の言う正のスパイラル、勝ち癖というものだ。
この連鎖に既に乗っている彼ら並みの力を僕たちが身に着けられればそれ以上望むことはないが、それに及ばずとも、物事に対する姿勢について彼らから学ぶことは多い。
相手の意図を理解できるという一見簡単に見える能力を身に着けるだけで、今後のその人との関わり方やこれまでの挑戦をこれからの解決に生かす方法を模索する材料となるのだ。
与えられた情報の表面のみから判断するのではなく、その原因と意味を想像し、その上で自分に得となりそうな部分を探る。
つまり主体性を持って行動するということが、大人になるということである。
主体性を持つだけだったり行動するだけだったりだと意味がなくなることに注意してほしい。
これらを意識して実践できれば、たとえ飲酒ができずとも、喫煙ができずとも、ただ時間を食ってきただけの大人よりも立派な大人となる。
具体的にあなたが明日からできるもっとも簡単なことを挙げる。
学生であれば、教科書に書かれたことや本屋に並んだ問題集に自ら挑戦することである。
これによって、あなたが社会から与えられた学生という役割を全うすることになる。
実際その結果を示す場として、今後の社会活動についてまわってくる学歴の良し悪しを決定する入試が誰にでも訪れる。
社会人であれば、気乗りしない誘いであってもその有用性を見抜き、集いに積極的に参加することである。
あなたが社会から与えられた役割は、あなたが生活を営めている以上既に半強制的に全うさせられている。
学生と異なる点は、入試のように全員が同じタイミング、同じ基準を用いて評価される機会がないという点である。
常日頃から自己を研鑽し続けることが、今後の社会活動の基盤となる。
迎えた高校生活最後の夏休み。
高校の同期が1人しか残らなかったプールで8日間を過ごした。